• 移住者

喧騒

本田信・青木節子 1929年/53年生まれ

 バブル期のど真ん中。1988年。ど派手な女性が三人、磐越東線船引駅に降り立った。車で出迎えたのはスーツ姿の三人の男性。一向は挨拶もそこそこに国道288号線を一路東へと車を走らせた。
 車中の人となったその三人は、母・信さんと二人の娘たち。出迎えた男性は都路村(当時)の職員だった。この日、母娘は神奈川県の観光地としても名高い湘南の鵠沼海岸から電車を乗り継いでやってきた初めての来訪だった。
 三人を乗せた車は、船引駅前の商店街から常盤の街を通り過ぎ、しばらくすると穏やかな山あいの中を走り抜ける。季節は5月。周囲の雑木山は新緑の時を迎えていた。車窓から見えるグリーンのグラデーションと、その山の匂いをのせて車中に吹き込んでくるが風が心地ちよかった。
 やがて車は緩やかな峠を越え都路大橋にさしかかる。視界は一挙に開け、右手前方に都路村の街並みが飛び込んできた。その光景に「あっ、チロルの村だ!」と母・信さんは声をあげた。

(一)

 信さんの長女、節子さんは、北海道網走で生まれた。記憶は定かではないが、4~5歳の時に両親に連れられて上京。大森にいた時に小学校に入学した。
 当時、父親は独立して工場を経営していたが倒産。一家は田園調布に引っ越し、節子さんはここで中学に進学する。
 「中学生時代に考えていたことは、日本の文化というか、日本的なものというか・・・そういうものが気になりだしていました」
 高校は目黒にあった女子校に進学。小学校時代から絵を描くことが好きだった節子さんは、中学~高校を通して美術部に所属していた。
 「高校生になって、中学時代におぼろげながら考えていた“日本的なもの”がはっきりしてきました。それで、将来は友禅作家のような絵を描く人になりたいと思うようになりました」

 高校卒業を控え、その“日本的なもの“を職業として具体化することが迫られてくる。節子さんは「友禅」と「髪結」の二つを考え両親に相談した。
 するとある時、父親が友禅作家の師匠ところに連れていってくれた。丁度昼時だったので食事を一緒にしたのだが、師匠と弟子とではおかずに天と地ほどの違いがあった。
 師匠からは「一人前になるには、こういった修行が必要だ」と諭され、父親からは「お前にできるか?」と問われ、自信を失ってしまう。
 次に「日本髪を結いたい」と言うと、今度は母親が浅草の髪結さんのところに連れて行ってくれた。そこでよく見てみると、髪結さんは歯も手もボロボロ。歯を喰いしばりながら髪を結うことの過酷さを知った。そして、3年間は掃除に洗濯、ご飯炊きが弟子の条件と告げられ諦めた。
 節子さんは、“日本的なもの” を支える現場の厳しさを目の当たりにして、正直たじろいだ。しかし、諦めたわけではなかった。すると「だったら着物はどうだ? お前は着物のことを知らないだろう?」と親からも勧められ、東京日本橋にある老舗の大手デパートに就職した。

(二)

 そのデパートでは、ずっと呉服関係の売り場で過ごした。着物が好きだったし、お客さんと一緒に着物を選ぶことは楽しかった。しかし、販売の仕事は何よりも売り上げが優先される。そんな中で、10年近くも呉服関係の売り場にいれば、着物の世界にも徐々に疑問が湧いてくる。好きだった着物を嫌いになっていく自分がいることを知ってしまうと、次第に“少し距離をおいて考えたい”と思うようになった。
 当時、父親の仕事も順調で住むところも横浜から藤沢に変わっていた。環境も変わり、出会う人たちも変わる中で、節子さんの心の中も変わってきた。
 “何をしたいのか?” という具体的なものがあったわけではないが、“もっとしたいことをしよう!”と思うようになった。
 そして28歳の時、10年間勤めたデパートを退職した。

退職後、節子さんは父親が行っていたジムに通うようになり、そこで当時はまだ先駆けだったジャズダンスを習った。しばらくすると知人から、「新しく江ノ島に女性の総合センターができるので、節ちゃん、そこでジャズダンスを教えてよ」という話が舞い込んできた。
 そのダンスと、これまでに父親から手ほどきを受けていた得意のマッサージも加えて週二回の教室を持ったところ大評判となり、あれよあれよという間に生徒が増えてしまった。
 その頃は、母・信さんの仕事も順調だった。主婦をしながら手がけた観葉植物のアレンジが評判となり、雑誌社から何度も取材を受けた。インテリアの本も出版し、その本がきっかけとなり、新宿に最初にできた高層ホテルで花の装飾を手掛けるようにもなっていた。

(三)

 母娘とも多忙な日々を送っていた丁度その頃、藤沢の自宅は海岸近くではなかったものの、辺がにわかに騒々しくなっていた。県内はもとより、他県からも沢山の暴走族が藤沢の鵠沼海岸を目指してやってきたのだ。
 時はバブル期。「売るなら今よね? で、どうする? どっち方面に行きたい?」と、コンサルタント業をしていた父親は一年365日のうち300日は仕事で不在にしていたので、いつも女三人で移住先について話し合っていた。
 「北海道生まれなので暑い所は嫌だし、関西方面はあまり好きではないよね」「千葉は東京と同じで賑やかそうだし、埼玉、茨城はちょっとダサいし・・・」
 そんな話をしていた時だった。「だったら福島は?」という話がでた。福島は父親が仕事をしていた関係で馴染みもあった。そして福島県の地図を取り出して見ていたら「あらっ? 都路村というのがあるじゃない?」と言う話になった。
 三人の女性たちは、その「み・や・こ・じ」という名前の美しさと「む・ら」という言葉の響に、なんとも心が惹かれた。

早速、県庁に問い合わせると、たまたま村が空き家対策として移住者の受け入れに動いていたことがわかった。話はトントン拍子に進み、一度都路村を訪問してみることになった。
 「とにかく、藤沢にいた頃から女三人、派手な格好をしていたので目立つわけですよ。船引に着いた時、母は真っ赤な帽子を被っていましたし、私はサブリナパンツをピタッと履いて、妹はジーンズ姿でした」
 その格好で役場に行って、すぐに村長と面会し話を聞いた。都路にはこの時を含めて都合二回訪れている。二回目の訪問を終えて藤沢に帰った時だった。
 「都路、良かったね! どう思う? 引っ越そうか?」
 その母・信さんの一言で、移住はすんなりと決まった。
 元々、藤沢の家を決めたのも信さんで、不在の多い父親に代わって、信さんはいつも娘二人をグイグイ引っ張る大黒柱だったし、物事を決める上での決定権も持っていた。娘たち二人も“母親の決めることに間違いはない”と絶大な信頼を寄せていた。
 その信さんが、移住先を都路に決めた決定的な要因は何だったのだろうか?
 「母は父とよくヨーロッパに旅行していたのですが、“最後はチロルのような所に住みたいね” と、いつも言っていました。だから都路大橋から見えた山並みと街がチロルの風景と重なったのだと思います」(節子さん)

(四)

 都路に初めてきたのが5月で、7月には早くも引っ越しをすませた。住まいは、とりあえず役場から都路大橋の下の川沿いあった空き家を紹介してもらった。
 都路で迎える初めての夏は、蒸し暑い首都圏と違いクーラーもいらないほど気持ち良かった。その朝の清々しい空気の中で、節子さんはレオタード姿でジョギングをするようになった。すると村内がにわかに騒めきたった。
 「変な娘が走っているがどの家の娘だべ?」と、すぐに噂になった。軽トラックが脇を通り抜ける時には、「大丈夫かいっ?」「乗ってっかいっ?」と声を掛けられた。
 そしてしばらくすると「お~い、起きてっかいっ?」「うちの嫁さんにどうだいっ?」
 と、村人が次々とやって来るようになった。それも朝の5時。しかも、嫁さんを探している本人ではなくて、親とか親戚の人が代わりにやってきた。
 「それには母も私もびっくりしてしまって、村長のところに相談に行ったわけです。母は村長に“この村の男の人たちは、自分の嫁さんも自分で探さないでどうなっているのですか?” みたいなことを言ったんですね。そうしたら村長から “食べさせて飲ませれば本音を言うので、一度みなさんと話してみませんか?” と言われたわけです」
 そしてしばらくすると「何月何日に集まることになりました」という内容の回覧板が回ってきた。
 「その日時も私たちには知らされることなく決められていたわけです。で、会場は公民館だったので、私と母はとにかく公民館の調理場を借りて、当日は朝から一生懸命ご飯を作ったわけですよ」
 その日、参加した人数は20人前後で、会場はほぼ満席となった。宴席では各自の自己紹介から始まり、みんなでワイワイご飯を食べている時だった。一人だけ一番最後に遅れてやってきた男性がいた。それが後に節子さんと結婚することになる青木一典さんだった。
 「とにかく目立つわけですよ。遅れてはくるし、着ていたものも他の方々がスーツ姿だったのに対して、黄色のトレーナーにツナギでしたから。それにほのかに香る石鹸の匂いも印象的でした」
 一典さんは、学生時代に読んだ雑誌の中にあった「農業は景観を作る仕事」という一文に感動し大学卒業後、都路に戻り就農していた。牛と田んぼの他に新たな野菜作りにも取り組み始めた頃だった。
 「それで宴会も終わり、みんなが帰った後に母が“あの男の人、いいじゃない?”と言うわけですよ。私は “どの人?” って聞き返したぐらいですから、まだその気はありませんでした。そしたら、“ほら、一番最後に来た人よ。山の中の家を見せるって言ってたじゃない。行ってみな!”と、母から背中を押されたわけです。で、翌日か翌々日に裏山を見せてもらったのですが、その山の美しさがとても気に入ってしまったわけです」
 当時、母娘が暮らしていた小さな借家は、しょっちゅう電気や水道が止まったりしていたのだが、それからというもの、困った時は一典さんに電話をするようになった。すると一典さんは、すぐ駆けつけて修理をしてくれた。節子さんにとっては、その姿がとても頼もしく、その時から一年もしない内に二人は結婚した。

(五)

 これまで、農作業とは全く無縁な都市の真っ只中で暮らしてきた節子さんが、いきなり移住先の農家に嫁いだ、その心境はどのようなものだったのだろう?
 「結婚した当初は農家の嫁になったのだから農作業を手伝うつもりでいました。ところが田んぼに入れば、踏み入れた足が抜けないんですよ。それで、もがいているうちに今度はバランスを崩してひっくり返ってしまうわけです。畑に種を蒔く時は、畝に一典さんが線を引いてくれて、私はそこに一粒一粒蒔いていくわけですが、一典さんはその私の姿を見て横で“ワッハッハ“と笑っていました。私は  “人が一生懸命やっているのに何で!” と言って後ろを振り返ると、カラスが私が蒔いた種のすぐ後について全部食べていました。そんなこんなで、農作業は自分には無理だということがはっきりしたわけです。恐らく一典さんには最初から無理だということがわかっていたと思います」
 農家の嫁なのに農作業をすることができないとわかった時、どうしたのか?
 「当時、おばぁちゃんは農作業をしながらご飯の支度もしていました。そこでおばぁちんと話合って、ご飯の支度と掃除は私がするということで、お互いやるべき仕事を振り分けたわけです」
 また、少しでも家計の足しにと、都市の奥様方と違ってなかなか習い事ができない農家のお嫁さんたちを公民館に集めて、これまでやってきたダンスや体操、料理教室などを開いた。
 その教室は評判となり、滝根の公民館からも声がかかるほどだった。その時はちょうど娘の菜々さんが生まれてまだ間もない頃で、夫の一典さんが滝根までの送迎を引き受けると同時に、教室が終わるまでの一時間、車の中で娘をあやして待っていてくれた。
 「この辺りの習わしだと孫の面倒は、おばぁちゃんがみるのが一般的だったのですが、子育てに関してもおばぁちゃんと話合って私がすることにしました。だから一典さんには、子育ては極力手伝ってくれるようにお願いしていました。なので菜々をお風呂に入れるのも一典さん。三時間おきのミルクも一典さん。たまに夜泣きをした時もあやすのは一典さんでした。一典さんは嫌な顔一つしないでニコニコしながら協力してくれました」
 最後に、節子さんにとって都路はどんな所ですか?と、ヤボな質問をぶつけてみた。
 「都路への移住を決めた母の判断は正しかったと思っています。誰かが言ってますよね、故郷とは生まれ育ったところではなく、自分を理解してくれる人がいるところが故郷なのだと。その意味において、都路は私にとっての故郷になりました」
 40年近く前に初めて見た「緑の中のチロルのような光景」は、節子さんの心の中で色褪せることなく今も続いている。

(取材した年:2024年、担当支援員:佐藤定信、写真・文:田嶋雅已)

他のインタビュー記事を見る