- 移住者
田舎
中田 静夫 1945年生まれ

そのログハウスは、国道から脇に入った小道を駆け登った雑木林の中にあった。ログハウスの前には、なんともスタイリッシュな軽トラックが停まっている。
キャブ内を覗き込むと、シートもインパネもステアリングカバーも色調が統一され、外観はタイヤも荷台の前後に取り付けられたアングルも、落葉して無彩色に染まった雑木林の中で異彩を放っていた。
「車には昔から凝るところがあって、人と同じのは嫌なんですね。オプションなんかも色々調べて取り付けてしまうのですよ」
このログハウスの主である中田静さんは、自分好みに改造したその軽トラを眺めながら満足そうにそう語った。
(一)
中田さんは、子供の頃から大の乗り物好きだった。中学を卒業すると、国内にたった3校しかない鉄道学校に迷わず進学した。
その学校は普通の高校と同じ三年間で、鉄道に関するあるゆる知識を学ぶ専門の学校だった。
「私は根っからの乗り物好きでしたけど、足が地面から離れる乗り物は苦手でした。だから飛行機とか船は問題外で、そうなると選択肢として残るのは鉄道ということになるわけです。その学校は卒業さえしたら国鉄(現JR)に、優先的に採用されたので迷うことなく進学しました」
戦後復興の象徴としてあった1964年の東京オリンピックの開催は目の前に迫っていた。中田さんがその鉄道学校の3年生だった1963年に東海道新幹線が東京⇆大阪間で開通した。
「同じ鉄道でも将来の花形は新幹線だと思いました。だから、当時はゆくゆくは新幹線の運転手か乗務員になろうと意気込んでいたわけです」
ところが、当時の国鉄は入職が一年早くても先輩は先輩で、上下関係がはっきりしていた。夜勤でお風呂に入る時も順序は決まっていて、入職一年目の新人は一番最後。しかも、お風呂の掃除までして出てこなくてはならなかった。入職が早いか遅いかの違いだけで職場内の規律が貫徹していくその古い体質を、中田さんは、“なんか嫌だな”と思っていた。
その点、私鉄の方がまだ融通がきいた。卒業生の多くが優先して入れる国鉄を選択していく中で、中田さんは私鉄を選んだ。
とは言え、国鉄ほどではないにしても私鉄でもそういった体質が全くなかったわけではない。それは当時の鉄道業界全体の問題でもあった。
「そんな中で多くの人たちは辛抱して何十年と勤め上げるわけですが、私は自由な気風を好んだわけです。それに一つのことにこだわらずに割と切替も早い方でした」
当時、周りを見渡すと日本経済は戦後経済から高度経済成長へとまっしぐらに突き進んでいた。産業界はエレクトロニクス全盛の時代に移行しようとしている。
「そういった状況をみれば、これからの時代はこういった先端事業の業界を選ばなくてはダメだな、と思ったわけです」
結局好きで入った乗り物の好きの鉄道の世界も、運転手や乗務員になることなく駅勤務をわずか3年しただけで、21歳の時に退職してしまう。
(二)
しかし、中田さんはすぐに半導体関連の会社に転職したわけではない。鉄道の知識はあっても半導体の世界は全くの門外漢。業界に転職するためには専門的な知識を身につけなければならない。そのため、中田さんはあえて浪人生活を選んだ。今でいうところのフリーターだ。
とは言え、立ち食いうどん店とかでバイトをしていたわけではない。将来はエレクトロニクスの測定器とか送受信機とかが必ず必要となる社会が来る、という明確な判断の下、目標に向かって半導体関連の会社をいくつも選んで働いた。
「最初はちんぷんかんぷんでしたが、組み立ての勉強をしたり回路まわりの勉強をしたりしていました。そういった勉強は社員になってからだと色々規制されて自由にできませんからフリーの時に積極的に勉強したわけです」
まだ20代。知らないことでも一冊本を読めば大方のことは吸収できた。誰かに聞かれても大抵のことは答えられるまで知識も豊富になった。そして総合電気メーカーに再就職した。
この時、中田さんは30歳。つまり、鉄道会社退職後のフリー時代は約9年と長きに及だことになる。しかし、この期間のすべてを再就職のための勉強だけに費やしたわけではない。中田さんは、この浪人時代こそ人生でもっとも充実した時代だったと振り返る。
「軽井沢でキャンプファイヤーをしていた時、都内の大学生がウクレレを弾いていて、集まっていた女性のほとんどがウクレレの方に行っちゃったんですよ。それが悔しくて悔しくて、すぐにウクレレの猛練習を開始しました」
この時以降、集めたウクレレの数は60本を超える。一つのものに興味を持てば、その世界をとことん追求するのが中田イズムだ。
女性と接触する機会を多く持つためには社交ダンスが有効と聞けば教室に通い、挙げ句の果てには講師の資格まで取ってしまう。後に結婚した女性もこの社交ダンスで知り合った女性だった。
ペット好きが昂じるとペットケアアドバイザーの資格を取り、後に都路に移住してからは、植木の知識も必要と思えば造園業の資格まで取ってしまう。「これも習おう、あれも習おう」が、「これも取ろう、あれも取ろう」となり、資格を取ることを目的としたわけではないが、結局これまでにとった資格の数は全部で11種類に及んだ。
一つのものに興味をもつと、その世界をとことん分析し追求する。そして極めるまでやり尽くさないと気が済まない。
ログハウスや車の改造だけではなく、ウクレレや絵画の収集。万年筆からレコード、パーカッション、帽子のコレクションに至るまで中田さんの世界は多種多彩だ。帽子に至ってはメーカーのモデルまで努めたことがある。やり始めるとまっしぐら。それこそがまさに中田イズムの真骨頂だ。
(三)
そんな中田さんが移住を意識するようになったのは意外と早い。
「私が生まれたのは東京は文京区の本郷なんですね。つまり東京の中でもど真ん中。小学生の時に夏休みが終わって登校すると、当然休みの話になるわけですよ。その時、友達の多くは田舎のおじぃちゃん、おばぁちゃんの所に行って来た、という話になるわけです。私はそのイナカという言葉が全く理解できなくてショックだったわけです。家に帰って
『イナカって何? うちにはイナカはないの?』って聞いたことがあります。そしたら『ない!』と言われました。中田家というのは父方も母方も江戸っ子だったわけです」
つまり、江戸っ子たるが故にイナカに憧れ、イナカを持ちたいと思ってきた。そして成長するに従い結婚するなら田舎出身の人、と思うようになった。 つまり自分にイナカがなくてもイナカ出身の女性と結婚すれば、自分もイナカを持てるし、子供をイナカに連れて行くことができる。
しかし、イナカならどこでもいいというわけではなかった。同じイナカでも東北の、中でも秋田か青森の女性がいいと思うようになった。
「結局、私の考え方は不純なんですよ。俗に秋田美人、津軽美人って言うでしょ。いいなぁと思っていました。だから知り合った女性には必ず出身地を聞いていました。私の場合、結婚するにあたっては、どこにイナカがあるのか?というのが大きな選択肢の一つだったわけです。女房とは社交ダンスで知り合ったのですが、まさにその青森の人でした」
結婚によって中田さんは念願のイナカを持つことができた。しかし妻の実家のある青森は豪雪地帯。中田さん自身が青森に移住するという考えはなかった。
(四)
とことん物事の本質を追求し中途半端が嫌いな中田さんのサラリーマン時代は、当然のことながら仕事に関しては絶対誰にも負けないという強い競争心で向き合ってきた。
日本経済は1973年のオイルショックにより高度経済成長は終わりを告げていたものの、その後は安定成長から未曾有の好景気、バブル経済の時代に突入していく。
「今の時代では考えられませんが、当時は成績にもよりますが昇給時期になると30%UPとかいうのがざらにあるんですよ。上がり幅がすごかった。加えて実積給にボーナスですからあっという間に給料が増えていきました。でも、その代わり朝早くから夜遅くまで働く企業戦士でした」
“二十四時・・・はるか世界で闘えますか・・・ジャパニーズビジネスマン・・・“という某製薬メーカーが作ったテレビCMが繰り返しお茶の間に流された。まさにサラリーマンが「戦士」だった時代だ。
だからこそ中田さんは、退職後は静かな田舎に移住して、仕事には何の未練もなく自分の趣味に没頭したいと思っていた。
当時、職場の同僚たちは都内に次々と戸建のマイホームを作っていたが、中田さんは借家を通した。
「私は30代の頃から家を建てるならログハウス、それも東京のような猫の額みたいな所ではなく、広い土地のある田舎に建てたいとずっと考えていました」
その土地探しは30代の終わりから始め、 40代から50代にかけて本格化する。家族旅行をしながら家族は旅館に置いて、一人でリゾート物件を扱っている地元の不動産会社に行き、色々な所を訪ね歩いた。家族からは“旅行なんだか、移住地探しなんだかわからない “と揶揄された。
「ウチの女房の実家が青森だったので、北を探しました。鳴子峡から白石。そして会津から只見まで行ったこともあります。で、当時都内で行われた“田舎暮らしセミナー”に参加したのをきっかけに都路のことを知りました。以来、結局40代の初め頃から都路に通うようになっていたわけです。水も美味しいし空気もうまい! 山も群馬みたいにそそり立った威圧的な山はない。この辺りの山はなだらかで丘みたいな山が折り重なっている。だからとても柔らかな感じがして気に入りました」
さらに、中田さんが都路を選択した決め手に地盤がある。阿武隈高地というのは古い地層で、当時、経済企画庁長官だった作家の堺屋太一氏が阿武隈高地を首都移転の候補地にしていたほど安定した地盤の所だった。
“山”と“地盤”。そしてもう一つ決定的だったのが“人“だった。
「私が探したことのある他県は、どうしても他から来る者を “よそ者” として見ますけど、都路にはこの “よそ者” という見方がありませんでした」
都路に移住してきた多くの人たちが異口同音に語るこのフレーズは、一体どこから生まれたものなのだろうか?
「私もそれが不思議で都路の小学校で校長先生をされていた方に聞いたことがあります。その方の説明によれば、都路は昔、会津の漆器などを大阪や京都の方に運んでいくための、浜へと向かう最後の宿泊地だったそうです。だから色々な人が他所から都路に集まってきた所だったので “よそ者” 意識がないのだと、教えられました」
(五)
中田さんには、自然界のものでも人間界のものでも、わからないことがあれば何でも調査して、その理由を把握したいという妙な趣味がある。
四方を入り組んだ雑木林に囲まれている中田さんのログハウスは、小高い丘の上にあるため、一方向から吹いて来た風が必ずしも反対方向に抜けていくわけではない。
問題は落葉の季節。せっかく掃き溜めた落ち葉の山も、場所によっては吹き抜ける風にのって飛散してしまうのだ。そこである時、考えた。敷地の四隅にリボンを結んだ棒を立て、自宅周辺の風の周り方を調査した。
「そのリボンがなびく様子をじっと観察したわけです。おかげで風の通り道がよくわかりました。例えば木枯らしが吹くと積もった落ち葉は下の集会場の方に吹き寄せられるのですが、そうすると今度は西風の吹きおろしがきて、今度は国道の方まで飛んでいっちゃうんですね。私には、風の吹き方一つでも把握しないと気がすまない、変な趣味があるんですよ」
緻密な調査に基づいた周到な計画。だから若い時から「爺さんみたい」に見られたと、中田さんは苦笑する。
ここ都路に通い出したのが1986年。季節のいい時にだけ来たのでは、その地域の本当の姿は理解できないと思えば、春夏秋冬、季節が変わるたびに通い、念入りにあちらこちらを調べあげた。都路の自然と風土と文化を肌で感じながら、積極的に地域の人と触れ合い、溶け込む努力を重ねてきた。
そして5000m2の広大な敷地にログハウスを建てたのが1993年。しばらくは別荘として使いながら、定年を2年前倒し、正式に移住したのが2004年。だから都路との付き合いはすでに40年近くになる。
「この40年を振り返ると、都路をイナカにした自分の判断は間違っていなかったと思っています。今も地域の人から色々なことを頼まれて、地域や社協の役をはじめ障害者の支援活動、その他の世話役まで入れると役職だけでも10を超えて忙しい日々を送っています。だから周りの人は、私のことを恐らく移住者とは見てないと思いますよ」
緻密な人生設計のもと退職後は趣味に生きようと移住して来たものの、役職に忙殺され趣味に没頭できないのが、中田イズムの唯一の計算違いだったのかもしれない。



(取材した年:2024年、担当支援員:佐藤定信、写真・文:田嶋雅已)