- 移住者
半農
佐藤定信 1955年生まれ

(一)
定信少年は、ちょっと変わった子供だった。生まれは、奥州三関の一つ「勿来の関」が置かれた福島県勿来町。父親は地の人で、旧満鉄で働いていたものの敗戦前には内地に引き上げ、戦後は当時勿来にあった炭鉱で働くようになった。
従って住居は炭住。時代は未だ戦後復興期。そんな時、そんな所で定信少年は生まれ育った。
小学校に上がる頃になると、日本社会は高度経済成長の時代に突入していく。「巨人・大鵬・卵焼き」と言われたほど暮らしも食べ物も徐々に余裕が生まれてくる中で、当時の男の子たちは草野球に夢中になった。
「あの当時、みんなで集まると野球をして遊ぶのが普通でした。でもオレの場合、あまりそういうのには混ざっていない。どちらかというと山菜やキノコなんかを採るのが好きで、しょっちゅう山に行っていました」
父親の趣味が山菜・キノコ採りで、その父親の後をついてまわっていたのがきっかけだった。そして採ってきた山菜を湯掻いて塩で揉んで料理した。どうすれば、苦味が少なくなるのか?どうすればより美味しく食べられるのか?子供ながらに考えた。小学校の高学年にもなると、土日は背負い籠を背負って一人で山に入るようになった。
とは言え、子供に山菜はどう考えても似つかわしくない。ましてや 経済成長期に入り、日本の食卓も、卵・肉・乳製品が中心となる欧米型に変化していく時代だ。山菜はどちらかと言えば大人になり、お酒を嗜むようになってからその美味さに気付くものではないのか?
「オレの場合はね、実を言うと小学校5年生の時から酒をたまに呑んでたんですよ。それも日本酒。コップ酒でした。でも小学生ですからそんなには呑んでない。量は一杯程度かな」
定信少年のお酒との出会いも、山菜・キノコ採りの楽しさを教えてくれた父親だった。家で晩酌を欠かさない父親の姿を横目で見ながら「酒ってどんな味がするのか?」と興味を覚えた。ある時、父親に酒を薦められると、定信少年はそのまま何の躊躇もなくコップ酒を飲み干した。
もちろん、小学五年生に酒の味などわかろうはずもなかったが、以来父親の晩酌にも時折り付き合うようになった。それが「酒豪・定信伝説」の最初の第一幕だった。
「伝説」の第二幕は中学3年生の時で、新聞配達のバイトをした時だった。少年は始めて手にしたバイト代で酒屋に走りブランデーを買った。
「酒屋の主人も、親の代わりに買いに来たのだと思ったでしょう。まさか買いにきた中学生が呑むとは思っていない。すんなり売ってくれました」
そのブランデーは、父親との晩酌用にすることなく、部屋の片隅に隠して一人コソッと呑んだ。
以降、今日にいたるまで、酒にまつわる幾多の「定信伝説」を積み重ねてきたことは言うまでもない。
(二)
父親が働いていた勿来の炭鉱は、定信さんが小学校四年生の時に閉山になった。その後、父親は家具を製作しているメーカーに転職した。
定信さん自身もその後、高校進学の時を迎えていた。できれば大学まで行きたいと考えていたものの、父親に相談すると「兄二人が行ってないのに三男のお前を大学まで行かせるわけにはいかない」とにべもなく却下された。
そこで工業高校の電気科に進学した。電気関係ならば配線工事などの技術が覚えられ、就職にも困らないと考えたからだ。
卒業して無事に大手電機メーカーの入社試験に合格すると、都内の武蔵小杉駅近くの事業所に配属先が決まった。ところが仕事の内容は高校時代に学んだ電気の知識は殆ど役にたたなかった。
定信さんが工業高校の3年間で学んだ電気の分野は「強電」。ところが、配属先は「弱電」。つまり時代の最先端をいく半導体部門だった。強電と弱電は似て非なる世界。まるで違う。「だから、高校時代に強電しか学んでこなかった自分にやっていけるのか?」と、不安に思う一方で知らない世界に対する新鮮味も感じていた。
定信さんは新たな知識と技術を獲得するために社内にあった夜学の専門学校に入学。そこで物理学や半導体などの基礎的知識を学び、同じ職場の先輩同僚からは実践的な技術を学んだ。
知らない世界の扉を開けることは楽しい。とは言えストレスは溜まる。田舎に居れば、すぐ近くの山に入り、趣味の山菜・キノコを採りに行くところだが、不慣れな都会暮らしではそうもいかない。
職場でのストレス解消はもっぱら「伝説」を復活させるしかなかった。
「だから当時は、時間の余裕のある時はお酒を呑んで遊び呆けていました。社内にあったお遊びサークルに入り、キャンプやイベントを企画してみんなで騒いでいたわけです。」
このサークルで定信さんは後に妻となる美代子さんと出会う。
(三)
ある意味、普通のサラリーマン生活をしていた定信さんに転機が訪れたのは入社して12年目の30歳の時だった。会社から秋田への転勤を打診され、別に断る理由もなかった定信さんは素直に応じた。
ところが秋田での仕事は猛烈に過酷なものだった。月の残業だけでもなんと120時間。
「つまり、平均すると1日6時間の残業ですよ。だから家に帰れるのはいつも夜中の12時過ぎ。それで朝は6時に家を出ていた。一体いつ休むんだ?という生活でした」
120時間という残業時間は、今で言うなら過労死と関連づけられる目安となる100時間を遥かに超えている。
ところが、どういうわけか定信さんは過労死するどころかますます元気になってしまった。何故なのか?理由は簡単だった。
秋田に転勤することによってこれまで封印していた山菜・キノコ採りを復活させることができたからだった。土日は必ず休み、山に入った。
「いやぁ、秋田の山菜・キノコはいいっすよ!南は鳥海山の麓から北は田沢湖ぐらいまで隈なく歩きました。ゼンマイなんか一年分食べれるぐらい採ってくる。ワラビも同じ。キノコはキノコで普段はあまり見ないようなキノコも採ることができました!」
また、定信さんがキノコ採りによく行った鳥海山の麓に位置する象潟町は母親の出身地で、実家が農家だったこともあり、時期にもなれば米づくりも手伝うことができた。
それは「会社を辞めて、このままここで農業で生活してもいいかなぁ・・・?」と真剣に考えるほどだった。そしてある時、「退職」を家族に相談した。ところが家族は猛反対。とりあえず農家になることは断念したものの秋田で暮らしたこの三年間の体験は、定信さんにとって後の人生を決定づける貴重な契機となったことは言うまでもない。
(四)
33歳で秋田から戻った定信さんは、40歳の時に神奈川県の相模原市に移り住んだ。そしてここ相模原での体験が、後に都路への移住を決定づけた。
引っ越して間もない頃、近くに無農薬・有機農法で米と野菜を栽培する「親と子の米作り青空教室」という市民主体の農業サークルがあることを知り、妻の美代子さんと共に夫婦二人で参加するようになった。そして、この時から秋田に居た時と同様、平日は会社に勤め土日は農業。そして山菜・キノコ採りは有給をとって行う、という生活が再び定着した。
この「青空教室」に参加するようになり、定信さんは文字通り農的生活に「はまった!」。 何よりも無農薬で作るお米の美味しさに感動した。スーパーで買う米とは天と地ほどの違いがあった。自然は・・・つまり「旨い!」と気付かされた。同時に、田植えが無事終わったことを祝う「さなぶり」や秋の収穫後に行う祭の楽しさも知ることができた。
この「教室」で作っていた米の販売単価はキロ1000円。市販の米と比べればかなり高価だ。しかし、その高価な米が売れたのだ。定信さんは無農薬・有機農法に確かな手応えを感じていた。
豊かになるための経済成長が環境破壊を繰り返す中で、人々の意識が「モノ」から「食」や「健康」へと変化していた時代でもあった。
この農業サークルは後に法人化され、定信さんはそこの株主になった。
その頃から徐々に「会社・・・辞めてもいいかな?」と再び考えるようになった。収入の問題ではない。旨いものが食いたいのだ。そのためには、自分の食べるものは自分で作るしかないと思うようになった。
60歳の定年まで勤めて、それから新規就農というのでは遅いのではないか? 体も充分には動かないだろう。だったら体の動く50歳を目処に移住し就農すべきではないのか?
移住先は生まれ故郷の勿来から近くもなく遠くもない福島県内と決めていた。「田舎暮らしの本」を頼りに、飯館、船引、都路の三カ所をまわってみた。飯館は周辺に人家もなく荒れていたし、船引は田んぼが五畝ほどしかなかった。その点、都路の候補地には夫婦二人でやるには充分な田んぼと畑があった。ほぼ即決に近い形で終の住処は都路の岩井沢に決めた。
そして50歳になった時、計画通り会社に辞表を提出。四ヶ月後の12月に都路の岩井沢に移住した。
(五)
定信さんは、年明けからすぐに米作りの準備を開始した。兎にも角にも旨い米を食べたかった。とは言え、いくら有機・無農薬といえども丸腰では闘えない。農機具などの購入費用に1000万円ほど投資した。
田んぼは、借りたところも含め全部で五反。前年まで耕作されていたこともあり、田起こしから代掻きまで、田植えに至る一連の作業はスムーズに進行した。
しかし、無農薬での米作りの最大の課題は何と言っても草との闘いだ。水田環境を適地として生えるヒエやコナギ、オモダカといった草はイネの生育を阻害するため除草作業は必至となる。
一口に除草といっても、無農薬田の草取りは経験した人でないとわからない過酷な重労働だ。だからこそ除草剤の使用は戦後瞬く間に全国の農家に広まった。
定信さんは、最初のうちはごく普通に中腰になって毎日毎日草を抜いていた。ところがこの体勢で1日やっていると腰にくる。おまけに梅雨も明ければ、今度は猛烈な暑さが容赦なく襲ってくる。
何かいい方法はないか?と、模索した。ある時、腰の痛さに耐えかねて寝っ転がりたくなった。「そうだ!いっそのこと寝転んじゃえ!」と思い、イネとイネとの条間にできたわずかな伱間に、半身浸けてみた。
すると、田んぼの水がなんとも心地よい。腰への負担も激減した。寝っ転がりながら泥まみれになって草を抜き、今度は寝返りをうって反対側の草を抜く。
すると、そこへアブが攻撃をしかけてくる。一日多い時で10匹、手で叩いてアブを殺した。アブの次は人間だった。
脇の道路を近所の人が通り抜ける。田んぼの中で蠢く「妖怪ドロマミレ」を見て奇妙な顔をして一言。
「オマエ・・・よくやるなぁ・・・」 続けてさらに一言。「オマエ・・・そんなことやってよく暮らせるなぁ・・・よっぽとお金に不自由がねぇんだろうなぁ」と。
ほんの5~60年ほど前まで、化学肥料も農薬もない中で、飢から逃れるために日本人はそうやって米を作ってきたのにあっという間に忘れてしまっていないか?
定信さんが無農薬・有機にこだわったのは、農薬による環境汚染や健康被害といった社会的要因、つまり使命感ではなく、一にも二にも「より旨い米が食いたい!」という一心だった。
そして、やがて季節は巡り実りの秋がやってくる。「妖怪ドロマミレ」になった成果のほどは、いかばかりのものだっただろうか?
「1反あたり1俵も獲れなかったところもあります。良く獲れたところで2俵ぐらいか・・・」
たったの一俵?良くて二俵?相模原で同じようにやっていた無農薬田の収量は平均6~7俵。この圧倒的な差はどこからくるのだろうか?
「恐らく長い間、慣行栽培で作られてきた田んぼで、化学肥料も農薬も目一杯使っていたんでしょう。そんな田んぼにいきなり有機でやろうとしたわけですから、相当な無理があったのではと思っています」
惨敗の1年目を経て、2年目からの定信さんの努力はものすごかった。これまでの堆肥に加え、米糠を撒いた。そしたら2年目には平均で3俵ぐらい採れるようになった。さらに3年目からは米糠の量を増やした。加えて旨味成分でもある油カスを足していった。できることは何でもした。そうしてようやく5年目にして6~7俵獲れるまでになった。
量ばかりではない。近くで獲れたお米と比較しても自分の作ったお米は、おかずがなくても食べられるほど遥かに旨かった!
(六)
「自然は旨い!」と、改めて認識させてくれた五年間の格闘だった。これならばお米で暮らしを成り立たせることができるかもしれないと、確かな手応えを感じていた。
しかし、そう思っていた矢先、2011年3月に大震災とそれに続く原発事故が起きた。避難と帰還が錯綜する混乱の中で、借りていた田んぼの地権者が亡くなり、その家族から返却を迫られた。
化学肥料によって瀕死の状態だった田んぼを、文字通り手塩に掛けて土壌を変えて、ようやくこれからという時だっただけに何よりも悔しかった。 しかし、定信さんはその悔しさを押し殺し、借りていた田んぼを全て地権者に返却した。
それをもって農機具に投資したお金も回収できないまま、定信さんの米づくりは終わってしまった。その定信さんに今の米問題について聞いてみた。
「お米、足らないんでしょ?増産、増産って言ったってお米はすぐには獲れませんよ。それに価格。消費者の人は安さを求めますが、農家の人が再生産できるだけの価格でなければ作る人もいなくなりますよ」
米づくりは止めてしまったが、自宅脇の畑には、整然と切られた畝に防草シートがかけられ、夏野菜への準備が整えられていた。その畑から見上げる視線の先には竹林と雑木山がひろがっている。今も季節になれば、タケノコ掘りや山菜・キノコを採りに山に入る。定信さんの自宅に数ある冷蔵庫・冷凍庫の中には山の幸が数多保存されている。
みんなが野球に夢中になる中、山菜を採りに山に入っていた少し変わった少年の「農への旅路」は今なお進行中だ。



(取材した年:2025年、担当:佐藤定信、写真・文:田嶋雅已)