• 移住者

泡沫

松平勉・久子 1940年/44年生まれ

 松平勉さんの、長髪を後ろに束ねたその髪型が、なんとも格好いい。
 「髪を伸ばし始めたのは都路に移住してきてからで、子育てのために働いていた時は当然こんな格好はできませんでした」
 そして「この髪型は自由の証!」と強調した。
 「都路に来てすでに34年になりますが、この間、床屋に行ったのは一度ぐらいしかありません」
 脇で妻の久子さんが「勉さんの髪の毛は全部私が切ってあげているのですよ」と付け加えた。その夫妻のさりげない会話のやりとりに、結婚して60年の月日を重ねてきた夫婦というよりは、いまだに新婚時代が継続しているような初々しさを感じた。

(一)

 その二人の初めての出会いは意外にも東京都内にある教会だった。
 夫の勉さんは東京の池袋で生まれた。幼少期は太平洋戦争の激化に伴い都内を転々としていた。1945年3月の東京大空襲の時は青梅。そして8月の敗戦の時は立川にいた。空爆と機銃掃射の中、防空壕に逃げ込んだかすかな記憶がある。
 立川には当時、陸軍の飛行場があり、戦後 GHQは真っ先にその飛行場を占領した。
 「周辺にはアメリカの軍用車が何台も車列を作って並んでいました。大人たちは外に出ませんでしたが、私たち子供は近くで見ているわけです。そしてアメリカ兵が何かをくれると喜んで駆け寄っていくわけですよ。だから私はよく言われる “ギブ ミー チョコレート“の世代なのです」
 敗色が濃厚になった戦争末期、勉さんの最大のおやつはスルメの足だった。
 「その足を食べてしまったらなくなっちゃう。だからずっと舐めているわけですよ。それが今でも記憶に残る手放せない一本でした」
 だからこそ、敗戦直後の日本の子供たちはアメリカのチョコレートに飛びついた。

 勉さんはその後、小学校一年生の二学期に埼玉県の浦和に引っ越し、中学は東京駒込駅近くにあった一貫教育のミッションスクールに進学した。
 「何故、ミッション系だったのか?   その理由はわかりません。僕が選んだわけではなく親の希望だったんでしょう。父も母もクリスチャンではなかった。母親の方は少し教会に関係していたかもしれませんが、それほど宗教性のある家ではなかったので、キリスト教を家の中に持ち込む様なことはありませんでした」

 妻の久子さんは大阪の池ノ上で生まれたものの、二歳の時に埼玉県の蕨市に引っ越した。そして勉さんと同じミッションスクールに小学校から入学した。
 「私も何故ミッション系だったのか・・・?それこそ家は南無阿弥アーメン法連経・・・でしたから、全く関係はありませんでした。ただ母がミッションスクールに憧れていたようです。二歳年上の姉が先に入っていましたから、私も何の抵抗もなくその後を追ったという感じでした」

(二)

 そのミッションスクールは、当時はまだ共学ではなく、フェンスを隔てて男子部と女子部に分かれていた。従って二人の初めての出会いは同じ学校の校内ではなく、二人が通っていた教会だった。
 久子さんが畑の中にあったその教会を訪ねた時、“松平勉“と名前の入った大工道具が入り口付近にポツンと置いてあった。そこに奥から出てきたのが名前の主、勉さんだった。久子さん中学2年。勉さん高校3年の時だった。
 「その時以来、私は勉さんがどこに行くんでもその背中を見ながらくっついて歩きました。随分鬱陶しかったと思いますよ」
 そして勉さん24歳、久子さん20歳の時に二人は結婚した。
 「結婚してからもずーっと一緒で、私は勉さんの仕事が変わろうが住む所が変わろうが、子供四人を連れてどこへ行くのでもゾロゾロゾロゾロくっついていきました」

 そんな久子さんの中で、勉さんに対して今でも後悔し申し訳なく思っていることが一つある。
 「高校を卒業してから、勉さんは牧師を目指して浪人をしていたのですが、私があまりにも後を離れずにくっついていたので途中で断念してしまったんですね。勉さんは“神様に選ばれなかった“と言っていましたが、私は一緒にいることの楽しさばかりに目が向き、勉さんの勉強時間を奪い世俗の世界に引っ張り込んでしまったと思っています」
 ところが、当の勉さんはそんなことは全くなかったと否定する。
 「確かに高校卒業してから牧師になるために一年間浪人をしていました。でもそれは自らの意思というより、母親の兄弟姉妹は洗礼を受けてクリスチャンになっていたので、自然の流れで安易に牧師を選んだというだけでした。当時は勉強するでもない、仕事をするでもない、あっちでもない、こっちでもないで、自分の行き先が自分でもわからないわけですよ。私はもともと優柔不断の風来坊で世俗的な人間だったので、人の上に立って人を導くような高潔な人間ではない、ということに気がついたということです。だから世俗に戻ったというより、世俗の方がいいと思っただけです。牧師への道は断念しましたが、結果としてその判断が間違っていたとは思っていません。おかげで久子と結婚することができ、四人の子供にも恵まれ、みな元気に育ってくれましたから、それが一番幸せなことだったと思っています」

(三)

 牧師を諦めた勉さんは「世俗に戻り」、東京の浜松町にあった印刷会社に働き始めた。ところが根っからの「風来坊」。子供も次々と生まれたこともあり、仕事も住むところも次々と変った。印刷会社の後は企画会社。電話販売のアルバイト。それからスチール家具の製造をしている会社の営業、等々。あわせて9回ほど仕事を変えていた。
 「貧乏して苦労したはずなんですけども、でもあの頃は楽しかった。6畳一間でトイレも洗面場も共同というような部屋にいたこともあります。けれど、ちっちゃな子供達をおんぶして抱っこして、そのさりげない暮らしがとても楽しかった」
 と、妻の久子さんは当時を振り返る。

 その後、勉さんは久子さんの父親が経営していた不動産会社で働くことになる。夫婦二人で不動産の取引主任者の資格も取った。
 そして時代は1980年代後半から90年代初めにかけてのバブル(泡沫)経済の時代へと突入していく。
 地価や株価が実体経済とかけ離れたところで高騰し、人々は投資と財テクに走った。ブランド化された高級品が飛ぶ様に売れた一方で、3K職場は敬遠され労務倒産が常態化していた。不動産会社を経営していた松平夫妻も、そういったバブルの真っ只中にいたことは言うまでもない。
 「その当時は、今日一万円だったものが何もしないのに明日には二万円になるわけです。地価が信じられないほど高騰し、小さなアパートに住みながら将来はマイホームを持ちたいとコツコツ働いていた若い夫婦の夢を打ち砕いていきました。だから、何なんだこの世界は!   と思いました。人の性格を変えていくお金というのは、なんて汚いものなんだ! と、ホトホト嫌気が差したわけです。だから、この世界から早く足を洗いたいと思うようになりました」(久子さん)
 「バブル時代というのは、まずは業者が利ザヤを稼ぐわけです。土地は動かないまま、口利きだけで利益が出ちゃう。そうすると地主さんも、“あっちはいくらだ?   こっちはいくらだ?”  と欲が出てくる。人間の様をみるようで本当に嫌でした。確かにそれで恩恵を受けたこともありますが、不動産業というのは欲の塊で、本人自身も気づかないうちにドンドンそうなってしまうわけです」(勉さん)

 勉さんが不動産業界に入ったきっかけは、久子さんの父親から声を掛けられたからだったが、一番の目的は家族を養うためだったことは言うまでもない。
 だから生活費を稼ぐために働くけれど、不当な利ザヤを出すような儲けはしない、というのが勉さんの基本的な姿勢だった。
 久子さんもその頃から動物愛護の活動を初めていたこともあって、もっと広々とした田舎で猫や犬の世話をしたいと思っていた。
 そこにやってきたバブルの波は、二人をミッションスクールで出会った頃の原点へと引き戻していく。
 「土と生きる生活というのでしょうか?   私たちの辿った道から言えば神の摂理に従った生活というのでしょうか?   そういうことを考え始めるようになりました」(久子さん)
 とは言え、実際に田舎暮らしを実行に移すのはそれほど簡単なことではない。
 「葛藤していた時期は一年ぐらいありました。今まで肉体労働をしてきたわけではないので、畑仕事をするのにも山仕事をするのにも軟弱でしたから、まずは体力をつけようと考えたわけです。それで、遺跡の発掘作業などのバイトを始めました。また当時は埼玉県の新座市に住んでいましたから、移住後を考えて、同じ埼玉県で無農薬有機農法を実践しているところに行き農業の勉強もしたわけです」(勉さん)

(四)

 やがて二人は、田舎暮らしを求めて、各地を訪ね歩くようになる。福島県内では只見の方から飯館の方まで探した。そして最後に辿り着いたのが都路だった。
 郡山から会津へ向かう山深さとは異なり、都路は低い山並みがどこまでも続き、とても優しさを与えてくれた。
 水も空気も綺麗だった。久子さんは “眠れる森の美女がいる様なところ” だと思った。
 そして夫妻は、国道から1キロほど中に入った山林原野3000坪を即決で購入し、かつて桑畑だったところに家を建てた。勉さん50歳、久子さん46歳の時だった。

 夫妻が地域に溶け込むのは早かった。村の人たちも役場の人たちも、とても感じがよく、他所から来た人を排除することなく暖かく迎えてくれたことは何より大きかった。
 「まぁ、僕なんかはこちらへ来てすぐに集落のソフトボールチームに入れてもらって、試合でホームランを打っちゃったものですから、たちまち人気者になってしまったわけです」(勉さん)
 とは言え、都路での移住生活に何の障害もなかったかといえばそうではない。当初は、バブルの泡に取り込まれた都会の生活から解放されて、“財布を持つことなく、その辺の草でも食べていけばいいんだ” という、のびのびとした喜びを感じていたものの、目の前の現実は予想以上に厳しかった。生きていくためにはガソリン代もいるし、買い物をすれば、田舎はそこそこ物価も高い。
 「その頃は、下の子供二人がまだ東京で学生をしていたので仕送りをしなくてはなりませんでしたから、ガンガンお金がなくなっていくわけです。それに私は動物保護の仕事もしていましたから、それにもお金がかかります。なので私は廃品回収やハンダ付けの仕事をしました。また資格をとってヘルパーの仕事もしました。できる仕事はなんでもしたわけです。」(久子さん)
 「僕はこっちへ来たら、ま、畑仕事ぐらいで、その他の仕事は一切しないつもりでいました。ところが家計を考えれば、そうも言っておられない。地元の不動産会社の手伝いを少しして、その後は村のゴミ収集の仕事をしていました。ごみ収集の仕事は、人の上前をはねるような仕事ではなく、自分の肉体を使って少しでも社会のために役立つならばと思ってやったことなのですが、とても良かったです。その後は、竹炭を作る窯場に行ったりしていました」(勉さん)

(五)

 そして都路に移住してから、いつしか34年の月日が流れた。これまで住んだ中でも、都路が最も長く暮らした場所となった。
 「田舎生活はお金もかからなくて気楽なものと考えていましたけど、とんでもない。甘く考えていました。それに肉体労働ってこんなにも過酷なものかと思いました。たった二畝の田んぼをやるのでも草刈りの時は腰は痛くなるわで大変でした。でも、勉さんから“これが終わったら飲みに行こう!”って、鼻先に人参をぶら下げられて一生懸命やりました。今振り返れば、あの頃が私たちの本来の生活だったかなと思います」(久子さん)
 「長い月日が経ったもんだとつくづく思います。その間、仕事先は変わる、住む所も変わるで、よくついてきてくれたと思っています。だから僕は久子には頭が上がらないのですよ。大変なことも多かったけれど、それを後悔したことはありません。都会の生活のように口先三寸、人のご機嫌を伺って仕事をするのとは違い、こちらに来たら自分の体を使って働かなければ食べてはいけません。でも僕は、頭脳労働よりも肉体労働の方が、人間の働き方としては真っ当だと思っています」(勉さん)
 畑の中にポツンとあった教会での出会いから始まった二人結婚生活はすでに60年。
 今、松平家には久子さんが動物愛護活動を通して保護した犬が2匹と猫が18匹いる。その動物たちに囲まれて、二人の「新婚生活」はいまだ継続中だ。

(取材した年:2024年、担当支援員:佐藤定信、写真・文:田嶋雅已)

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