• 移住者

脱出

齊藤秀孝 1951年生まれ

 札幌千歳空港を夕方飛び立った飛行機は、千葉県上空にさしかかっていた。その夜は満月。機体は羽田空港に向けて徐々に高度を下げていた。
しばらくすると、頭上からの月明かりと地上からの街明かりに照らし出された白い霧に、すっぽりと包まれた東京の街が見えてきた。
「これがスモッグか・・・? 東京はなんて汚い街なんだ・・・」
 まだ十八歳。都内にある専門学校に進学するために、初めて一人で上京した時、眼下に見えた東京の街に齊藤秀孝さんはそう思った。

(一)

 齊藤さんは、北海道の美唄市で生まれた。
北海道開拓以降、美唄は炭鉱で栄えた街で、旧財閥系の三井と三菱の炭鉱が街を二分していた。
人口は当時12万人。社宅も購買所も病院も鉄道も、生活インフラの殆どすべてが炭鉱所有のものだった。
 父親は三菱美唄炭鉱の坑外で設備関係の仕事をし、叔父は三井美唄炭鉱に働いていた。
齊藤さんは、文字通り炭鉱生まれの炭鉱育ちだった。
 美唄は、国内最大とも言われた石狩炭田の北部にあり、岩見沢からもほど近い。周辺には住友奔別炭鉱、三井砂川炭鉱、三菱芦別炭鉱など、道内屈指の大炭鉱がひしめき合っていた。

 地上の抗口から数キロ先の地の底で、地熱の熱さといつ起きるともわからない落盤やガス爆発の恐怖に打ち勝ちながら石炭を掘り出す炭鉱の仕事は、死を共有した労働こそが持ち得た独特な文化を育んできた。
 一山一家。老いも若きも、男も女も、仕事を求めて国内各地から集まった見知らぬ人たちであっても親戚以上の裸の付き合いが生まれていた。
 ハーモニカ長屋と言われるあの切ないほどの長屋の路地で、人は生まれ、成長し、そして老いていった。

 齊藤さんは生まれて50日目に父親を事故で亡くしている。「戦争と同じほど人を殺した」と言われるほど、日本の石炭産業は近代国家の夜明けから戦後復興に至るまで、おびただしい数の労働者の犠牲によって成り立ってきた。
「私がまだ赤ちゃんの時でしたから、父親の顔は知りません。母親は苦労したと思いますよ。でも炭鉱だったからこそ暮らしていけたと思っています。父の死後、会社の方で直営の売店とか病院に仕事を世話してもらっていましたし、母子家庭とはいえ何不自由なく育ちました。父親はいませんでしたけど悲しみを感じたこともありません。お袋が仕事で遅くなる時は、他所の家にズケズケと上がり込んでは晩御飯を食べさせてもらったりしていましたから」

 女手一つで子供を育てるために、母親は家にいないことが多かった。当然、家で一人になることが多い齊藤さんは、保育園にあがると隣町まで汽車で通うことになる。
「その頃は駅の事務所が私の遊び場でした。そして汽車が来ると今度は同じ列車に乗っていく消防署の署長の膝の上が私の座る場所でした。目的の駅につくと、今度は保育園の先生たちが迎えにきてくれて園まで手をつないで連れていってくれました。まわりは大人ばかりでしたが、みんな友達でした」
 地域で暮らし、地域で育てる。炭鉱が生み出した「共生の文化」の中で齊藤さんもすくすくと育った。

(二)

 高校は地元美唄にあった普通科に進学した。工業科や商業科を選択しなかったのは、特別な考えがあったわけではない。ただ単に普通に普通科に進学したにすぎなかった。高校では生徒会長を務め、活動に熱中した。しかし、それも2年生までで、3年生にもなると「のんびり屋」の齊藤さんもさすがに卒業後の進路について考えるようになった。
 その時、一番気掛かりだったのは母親の存在だった。炭鉱関連の職場を転々とする中で、齊藤さん自身も美唄の中で30数回の引っ越しを経験していた。幼かった自分を女手一つで育ててくれた母親のそばに出来うる限り寄り添っていたかった。
 当時、北海道にある職業訓練校の教官を養成する学校があり、この訓練校の教官になれば、ずっと母親のそばにいて恩返しができるかもしれない。齊藤さんはそう思い受験した。ところが結果は見事に不合格。やむなく滑り止めとして考えていた東京蒲田にあった電子工学の専門学校に進学することを決意
し、機上の人となった。

 「早く死んでしまった父親が炭鉱の技術職でしたし、私も機械いじりが好きだったので、職業訓練校の教官になれなければ、技術屋になろうと考えていました」
 齊藤さんは中学3年生の時にラジオを自作。高校生になると真空管のアンプも作った。高校を卒業する頃になると、世間にはトランジスターなるものが出始めていた。
 時代は高度経済成長期。それを支えていたのが科学技術を柱とした大量生産・大量消費の経済システムだった。
 もう真っ黒になって石炭を掘る炭鉱の時代ではない。日本のエネルギー政策も「炭主油従」から「油主炭従」に舵を切っていた。齊藤さんを育てた三菱美唄炭鉱も合理化の嵐が吹き荒れていた。

(三)

 蒲田の専門学校は二年間で、その上に一年間の研究科があった。齊藤さんは三年間をこの学校で過ごす。当時、電子工学関連は時代の花形産業だったし、その知識を知ることは楽しかった。
 とは言え、それほど勉強に前のめりになっていたわけではない。この三年間は専門分野の勉強よりも、むしろアルバイトに精を出していた。
 齊藤さんにとってのアルバイトは単なる生活費稼ぎのためではなく、就職するにはどんな業種がいいのか? バイトを通して業界探しをするためのものだった。結果、ビデオリサーチから高層ビルの窓拭きに至るまで、3年間で働いた業種はなんと36種類。平均すると一ヶ月に一業種を渡り歩いたことになる。
 専門学校の三年間で、齊藤さんは後に妻となる女性と出会う。同じ学校の同好会の仲間だった。
「とにかく私はバイト暮らしでしたから、バイト先に行くために蒲田の駅に行くと彼女が待っているわけです。で、“これからバイト?”と聞かれるので、“そうだ!” と答えると “ハイッ!“ と言って手作りの弁当を目の前に差し出されました。それを繰り返しているうちに、結婚しようと思うようになりました。ま、胃袋を先に掴まれたわけですよ」
 齊藤さんは専門学校を卒業し、社会人となる前の3月、21歳の時にその胃袋を掴まれた女性と結婚した。結婚するにあたっては、二人の間で四つの約束事があった。
 それは、子供は三人。母親は家庭。ゆくゆくは北海道の母親とも同居。そして最後は、第二の人生は「汚い街=東京」を脱出し田舎暮らし、という4点だった。
 いくら炭鉱が自分を育ててくれた、と言っても子供が母親を待つ暮らしは切ない。齊藤さんは、その思いを妻となる女性と共有したかったのだ。

 21歳で就職したのは医療用検査機器の輸入会社だった。当時は国内の病院でも検査機器はそれほど多くなく、ようやく中規模の病院でも導入し始めた頃だった。
 そのため、仕事は多忙を極めた。日曜に出社し、その日の夜行に飛び乗り一週間かけて東北をぐるりと周って帰ってくる。一月のうち東京の自宅に帰れるのは3日か4日という生活だった。
しかし、この会社で10年働いた32歳の時に、齊藤さんは別の計測器メーカーにヘッドハンティングされ転職する。
「当時の日本経済は少し下り気味で、各企業がリスク分散のために他業種にも手をひろげ始めた頃でした。最初に就職した会社は中小でしたが、今度は大手。条件も良かったし、仕事も面白くて達成感を感じていました」
 転職した会社でも、残業は月に180時間。
徹夜は当たり前で土日もなし。通勤時間は一日5時間。それでも齊藤さんは企業戦士として日々仕事に突っ込んでいった。
 そして55歳の時、「第二の人生は田舎暮らし」という人生設計通り、この会社を早期退職した。

(四)

「この頃には三人の子供も巣立って、妻と二人きりで第二の人生をどこで過ごそうかと考えていました。とにかく仕事に夢中になりながらも、一番の不満は東京は空気が汚いし、ごちゃごちゃしていてうるさい。だから一刻も早く東京を脱出したいと思っていました。で、54歳の時にバイクの免許をとってあちこち探し始めたわけです」
実を言うと、齊藤さんは会社を辞めたらどこかの離島に行き、憧れていた漁師になりたいと思っていた。そのための資料も集めていた。ところが “どうも島を狙っているな“ ということが妻にバレてしまう。
妻は神奈川の三浦半島の出身で、三人姉妹の末っ子。だから将来、親に何かあった時は陸続きで車を飛ばしていけるところを望んでいた。その妻の希望に応え、漁師になる道、つまり「離島」は断念した。

 齊藤さんが生まれ育った三菱美唄炭鉱は、専門学校に在籍していた1972年に閉山している。母親も、その後札幌にあった製紙会社の寮母として働いていたが52歳で亡くなっていた。すでに敢えて雪の多い北海道に戻る理由は何一つなかった。
 最初は千葉。次に神奈川。東京周辺から探し始め、そして山梨、長野、茨城と続き最後に福島に辿り着いた。
「各地を周ってみて、最終的に長野県飯田と福島県都路の二ヶ所に絞りました。いずれにせよ、地域というのは住めば都でそれぞれいいところはありますが、私の場合決め手になったのは山と地盤でした」
 山と地盤? 具体的に言うとどういうことなのだろうか?
「つまり、長野の南アルプスの麓で見上げる山は、人々を見下ろすかのように刺々しいじゃぁないですか。一方、都路のある阿武隈高地の山並みというのはなだらかで優しい。この二つの違いは決定的でした。もう一つの地盤については、飯田は天竜川沿いでしたからフォッサマグナが近くを走っているので地震はやばいぞ、と。その点、都路は近くに原発があるぐらいですからしっかりしているはずだ、と思ったわけです」
 齊藤さんは移住する上でもう一つ考えていたことがあった。場所も大切だが、まだ50歳台。新たな土地での暮らしを支える何がしかの収入もまた大切だった。
「移住先に島を考えていた時は漁師になろうと思っていましたが、陸地に決めた時、動物を飼うことを考えました。動物といっても牛や馬は図体が大きい。そこで、素人でも比較的に簡単に飼うことができそうな鶏を選んだわけです」
 齊藤さんは鶏の放し飼いをするために、都路に4町2反の広大な土地を購入した。そして、55歳の10月に早期退職。翌年の2月には東京の自宅を引き払って都路に引越した。

(五)

 “炭鉱生まれの根なし草”と自嘲する齊藤さんにとって、都路は人生で実に49回目の引っ越し先だった。この先、果たして50回目はあるのだろうか?
「実は私の両親のお骨は女房の実家の墓に預けっぱなしにしていたのですが、その女房も震災の前の年に亡くなってしまいました。なので、女房が亡くなったのを機に都路にお墓をつくり両親のお骨もこちらに持ってきて供養しました。その時になって初めて “俺もこの都路で死のう” と覚悟することができたわけです」

 齊藤さんの自宅は、頭の巣を貫く幹線道路から脇にそれたどん詰まりにある。居間の窓から西側に見える杉林の向こうは川内村だ。
「ここはヘタをすると一週間誰も来ないことがあります。それでもこの20年間、不安になることなく、のんびりと心安らかに暮らすことができたのは、人に会わなくてもとにかくウエルカムという地域の人たちの気持ちを感じながら生活することができたからです。もちろん“村八分“にならないために、新参者として積極的にその土地に馴染む努力をすることは大切ですが、受け入れてくれる地域の人々の気持ちは、見知らぬ土地で移住生活をする上で決定的に大きいと思っています。
 移住先を探している時、茨城、栃木あたりはどちらかといえば煙たがられた。“来ないでくれ!” とははっきり言いませんが、なんとなくそういう雰囲気は感じてきました。一方、都路の人々はどの人もみなウエルカムでした」
 見知らぬ人でもウエルカム。多くの移住者が語る、その都路が持つ開放的な懐の深さは一体どこからくるものなのだろうか?
「それは都路の街の成り立ちにあると思っています。ここは会津の次男坊三男坊が冬の農閑期に炭焼きに来て住み着いてしまった所なんですね。つまり元々移住者が作った村だったからではないでしょうか?」
 それは、赤い煙突を目指して他所から移って来た人たちによって作られてきた齊藤さんの故郷=炭鉱町とどこかで繋がっているのかもしれない。
「都路の人たちは阿武隈の山のように穏やかで、どこの馬の骨ともわからない私に、来た時からいつも受け入れ優しく接してくれました。だから今でも感謝しています。この地に移住した私の判断に間違いはなかったと思っています」
 そして最後に、齊藤さんは力強くこう締めくくった。
「50回目の引っ越し? 勿論、もうありませんよ。ここが私の終の住処です!」

(取材した年:2024年、担当支援員:佐藤定信、写真・文:田嶋雅已)

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