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結婚

宗像ラマイ 1973年生まれ

 大海を超えた花嫁の、「望郷の想い」は一本のバナナの木に託された。原発事故で都路から常葉に避難している時、通りすがりにたまたま見つけたバナナの木に心が躍った。
 「この木が欲しい・・・」 そう思った。
 車を降りて、そのバナナの木の持ち主に思い切って声を掛けた。
 「この木を・・・一本。ワタシに譲ってくれませんか・・・?」
 「あぁ、いいよ!」
 持ち主の老人は気安くそう答えるとスコップで掘り出し、手渡してくれた。
 バナナは故郷の木。都路では実をつけることはなくとも、その鮮やかな葉の緑と甘い香りをのせて吹き抜けてくる風の匂いが、故郷での暮らしを懐かしく思い出させてくれる。誰一人知る人のいない異国へと嫁いだ花嫁の心を何よりも癒してくれた。
 その花嫁の名はラマイ。今から28年前、25歳の時に南国タイから都路へとやってきた。

(一)

 ラマイさんはタイ北部、チェンライ県にあるソップカム村で生まれた。
 家は農家で、タバコやトウモロコシなどの野菜を栽培して村にある市場に屋台を出して売っていた。父親は長い間この村の区長を務めていたこともあり、畑仕事はもっぱら母親とラマイさんの二人が行い家計を支えていた。
 ソップカム村はタイの北辺に位置し、周辺には山岳小数民族が多く暮らしていることもあり、日本人にとっても馴染みのある観光地になっている。
 近くを流れるメコン川とルアク川が合流する辺りは、タイ・ラオス・ミヤンマーの三国が国境を接し、かつてはゴールデントライアングルとも呼ばれていた。

 チベットを源流とし六カ国を流れるメコン川は、ラマイさんの家から3〜40メートルのところを流れていた。
 当時はまだ水道が普及していなかったこともあり、小学校に上がる頃には川から水を汲み桶を担いで家まで運ぶのが日課だった。学校が休みの時は泳いだり潜ったりして遊んでいた少女ラマイは、悠久の大河メコンと共に育った。
 村は今から100年近く前に対岸のラオスから移り住んできた人たちによって新たに作られ、ラマイさんの祖母もその頃、竹で組んだ筏に乗ってメコンを渡ってきた人だった。
 いつの世も、人々は豊かさを求めて移動する。人が作った国境は人々を分断し、それぞれの国家の下に囲い込んでいくが、母なる大河メコン流域の人々にとって、そこに見えていたものは国境ではなく、川を挟んだ「こちら側」と「あちら側」という景色でしかなかった。

(二)

 一人の日本人女性が、同じ都路内に住むタイ人女性とタイ国内を旅行していた時のことだった。
 そのタイ人女性の知人がチェンライにいるので「寄ってみよう!」という話になった。二人が訪ねたその知人というのがラマイさんの父親だった。
 畑で農作業をしている時、「日本からお客さんが来ているので挨拶をしに顔を出しなさい」と突然父親から声が掛かった。
 挨拶・・・?いきなり言われても身支度をする時間もない。汗にまみれ、土にまみれ、頭はボサボサ。着ているものもボロボロの作業着。有りのままの姿で訪ねてきた日本人の前に立っラマイさんを一眼見た日本人女性は、一言こう切り出した。
 「ねぇアナタ、ちょっと手を見せてくれない?」
 手・・・?一体この日本人は何が言いたいのか・・・?見ず知らずの日本人からの言葉にとまどう間もなく立ち竦んでいた時、いきなり手を引き寄せられた。
 その手のひらは土にまみれ、大地に振り下ろす鋤と鍬が作ったいくつもの手マメがあった。
 会話はいらなかった。その手マメこそが家族のために労を厭わず、なりふり構わず働いてきたラマイさんの有りのままの姿を伝えていた。
 「この娘ならまちがいない」と直感した。そして「息子のところに嫁にきてくれないか」と切り出した。
 この日本人女性こそ、後にラマイさんの夫となる宗像照一さんの母、チヨさんだった。

(三)

 結婚の話はトントン拍子に進んだ。「結婚するかしないか・・・ワタシはどちらでも良かった。だからその判断は両親にまかせたわけです」
 ラマイさんの両親は日本人との結婚には賛成だった。娘としては、その両親の意向には出来うる限り従いたい。しかし、一つだけ気掛かりなことがあった。
 実はラマイさんは20歳の時にタイ人男性と結婚していた。その夫は事故で早くに亡くなっていたものの、当時まだ三歳になる娘が一人いた。
 チヨさんは「娘さんも一緒に日本へ」と言ってくれた。しかし、両親からは「娘は置いてオマエ一人でいきなさい」と言われていた。どうすればいいのか?悩んだ挙句、結局は両親の意向に従わざるをえなかった。
 それから暫くして、夫となる照一さんが日本からやってきた。ラマイさんにとっては、初めて生で見る日本人男性だった。
 「タイでもこれまでテレビで大相撲の放送をしていたことがあります。だから日本人はみなあんな風に太っているんだなぁ、と思ってました。ところが照一さんは痩せていて、びっくり。額も広く太陽のように輝いていました」
 その年の10月に村で挙式を済ませた後、照一さんは一足先に日本に帰国した。花嫁が生まれ育ったメコンに別れをつげたのは翌年1月になってからのことだった。
 祖母は筏で河を渡り、その孫は飛行機で海を渡り故郷を離れた。

(四)

 成田空港には夫・照一さんが迎えにきてくれていた。照一さんが運転する車で一路都路へと向かう途中、いわきで温泉に立ち寄った。その時、目の前では太平洋の荒波が繰り返し浜を洗っていた。その海が、これから始まる異国での生活に対する不安を一瞬だがかき消してくれた。
 「ワタシ・・・メコンで育ちました。だから川はワタシの友達。でも海を見るのはこの時が初めて。とても感動しました」
 そして、ラマイさんにとっては忘れることができない1998年1月17日。
 この日、「微笑みの国」タイから海を超えて「日出る国」日本にやってきた花嫁を、都路は一面の銀世界で出迎えた。踏み入れた足は膝の上まで雪に埋まった。
 「雪を見るのももちろん初めてでした。とても美しかったです」
 初めて見る海にも雪に感動した。しかし、それはほんの一瞬にすぎない。すぐに現実に引き戻された。
 「ワタシの実家も田舎でしたが、家は沢山ありました。窓を開ければすぐ前に隣の家の窓があり、窓越しに話ができたほどです。ところが都路は山ばかり。隣りの家に行くにも遠くてままならない。本当にびっくりしました」
 そればかりではない。言葉も全くわからない。知ってる人も一人もいない。しかも山の中。そんな土地でこれからどう暮らしていけばいいのだろう?
 夫は果たして良い人なのか悪い人なのかもわからない。もしヤクザだったら、ここから先またどこか違うところに売り飛ばされてしまうのではないか?タイに残してきた三歳の娘のことも心配だった。不安と恐怖と孤独に、文字通り押しつぶされる日々が続いた。

 都路の里山はいつしか新緑の季節を迎えていた。その新緑を美しく照らし出す光は確かにあった。しかし、ラマイさんの目に映る世界は、前を見ても後ろを見ても真っ暗だった。その常闇の中で、どこに最初の一歩を踏み出せばいいのか・・・?自分の足元さえ見えなかった。
 いきなり無重力の世界に一人投げ出されたような感覚だった。自分の意志はどこに向かうべきなのか?その方向さへ失っていた。
 「都路に来て、最初の六ヶ月間は逃げ出すことばかり考えていました。でも、どこへ行ったらいいのかもわからない。帰りたくても帰れない。毎晩布団の中で泣いていました」
 そんな時、機会をみてはタイにいる母親に電話をした。今でこそ、ネットを通して気軽に海外とも連絡を取れる時代になったが、この時代、国際電話はまだまだ特別なことだった。
 ある時、照一さんから「月の電話代が5万円を超えている」と言われびっくりした。しかし、夫も義母もそのことを責めたりすることは一度もなかった。
 そればかりか義母のチヨさんはいつも優しく寄り添ってくれた。二人で台所に立ち、二人で炬燵に入り、二人で畑仕事をした。日本の料理を教わり、日本語を学び、日本の野菜を育てた。
 そのうち、近所の人も訪ねてくれるようになった。言葉は分からなくても都路の人々の優しさに触れることができた。そして新緑から濃い緑へと山の色が変わる頃から自分の踏み出すべき足元が少しずつ見えるようになってきた。
 都路に来て二年近く経った頃に長男が生まれると、その足元はより確固たるものになっていった。様々なものにチャレンジする意欲も湧いてきた。
 子供の送迎のために車の免許を取りたいと思い自動車学校に通った。実技は一発で合格したものの、学科試験が難関だった。日本語は難しい。漢字はよくわからなかった。何度も失敗した。その度に受験料を支払わなくてはならない。夫に申し訳なかった。諦めかけたものの、家に帰って子供の寝顔をみると再びファイトが沸いた。そうして10回目にようやく合格することができた。

(五)

 震災直後にラマイさんが植えた一本のバナナの木は、15年近い時の経過の中で今では数十本に増えている。しかし、当時その木を見て浸っていた「望郷の想い」は、今はない。完全に封印することができるようになっていた。
 三人の息子たちが立派に成長してくれたことが何よりも大きい。ある時、その子供たちに聞いてみたことがある。
 「アナタたちのお母さんは、タイ人ではなく日本人だった方が良かったでしょ?」と。
 その時、子供たちはこう答えてくれた。
 「お母さん、僕たちは母親の国籍を選んで生まれてきたわけではないよ。お父さんとお母さんが愛し合っていたから生まれてきたわけでしょ。お母さんが外国人だろうと日本人だろうとそんなことは関係ない。僕たちにとってお母さんはお母さん一人しかいないよ」
 その子供たちの言葉にどれほど救われたことだろう。
 気がかりだったタイに残した一人娘も今では32歳。22歳で結婚し、二人の子供にも恵まれ、ラマイさんの実家の近くで幸せに暮らしている。

 今、この28年を振り返ると、逃げ出すことばかりを考えて泣いていた時に、つくづく逃げ出さなくて良かったと思う。今は幸せの毎日だ。  ラマイとはタイ語で「素直・優しい・美しい」という意味だという。28年前、「微笑みの国」からやってきた一人の花嫁の、素直で優しくて美しい「無垢なる笑み」は、たおやかに流れる「母なる河メコン」のように、今では都路の人々にとってもなくてはならないものになっている。

(取材した年:2025年、担当:佐藤定信、写真・文:田嶋雅已)

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